福岡市歯科医師会の歩み
福岡市歯科医師会の歩み
子供から高齢者まで、生涯は連続しており加齢とともに身体も変化していきます。そのため、健康管理も年齢に応じて連続して行われることにより、初めて大きな効果をもたらします。
「公衆衛生」という言葉は、様々な年齢や環境にある、すべての個人、地域全体に対して、健康や予防のための知識、情報のサービスを行うことを指しています。
現在では歯科医師会や市町村、保健所、学校など、公的な機関で主に行われていますが、現在のように充実した制度になるまでには、幾多の困難と努力の積み重ねがありました。福岡市においては、当初、個々の歯科医師達が集まり歯科公衆衛生活動を行い、その輪が徐々に広がり現在の福岡市歯科医師会へと発展していきました。言ってみれば、福岡市歯科医師会の歩みは、歯科公衆衛生の歩みとも言えるのです。そこで、福岡市の歯科医師達がどのように歯科公衆衛生を育ててきたかについて、福岡市歯科医師会の発展とともに述べてみたいと思います。
国の免許制度による歯科医師達が誕生したのは、明治16年からです。7年後の明治23年には、福岡ではじめての歯科医師が天神で開業しています。明治22年、福岡市制が施行された当時の人口は5万人。区域も、現在の天神町・唐人町・石城町などを含むわずか5平方キロの面積でした。明治40年には、福岡県歯科医師会が設立されました。
大正期に入ると福岡市は、大正元年に警固村、4年に豊平村、11年には西新町・住吉町と、周辺町村を合併して市域を拡大すると共に、水道の敷設が開始されたり、市内電車路線の延長や急行電車(現・西鉄大牟田線)の営業開始、またバスやタクシーの開業など交通網が発達していき、これにともなって商業を中心にした産業も近代化していった時期でもありました。歯科医師数も僅かずつですが増加しています。このような黎明期にあっても歯科界ではすでに公衆衛生活動が行われ始めていました。
大正6年、福岡市の人口は約9万人。歯科開業医数は15名でした。この年、福岡市と周辺6ヵ町村の主催による保健・医療・食品などに関する展覧会が2週間にわたり開催され、歯科部門でも、歯科関係品の陳列と、歯科衛生や小児の歯科疾患などについて講演会を行っています。また、同年福岡県歯科医師会の総会では学童の歯科検診の必要性がアピールされ、学童への低料金による歯科治療も実施されています。大正8年には福岡県歯科医師会の支部として、福岡歯科医師会が誕生しています。この当時の学童には約半数の生徒にむし歯がみられたという報告もあります。このアピールを起点として大正14年、日本で始めて福岡県に学校歯科医の制度が生まれることになりました。
大正9年には、10万福岡市民の口腔衛生の普及と歯科疾患への意識を高めようと、第1回「むし歯デー」が東京に次いで全国で2番目に開催されました。このように、当時の福岡市の歯科医師達は、常に新しい試みに先駆的役割を担ってきました。また、福岡市民の反響が良好なこともあって福岡県歯科医師会は、大正12年には、口腔衛生の宣伝と啓発をさらに積極的に行うために、歯科医師会の組織に「講演部」を設置し、15名の部員が任命されました。当時の会員数は約50名。全会員の約3分の1が歯科公衆衛生にとり組むということになり、歯科医師会の公衆衛生に懸ける姿勢の一端を窺がうことができます。
昭和2年3月、福岡市歯科医師会は法人格を持った組織となりました。これを期に、対社会的活動をより積極的に推進するため、「口腔衛生普及部」を新設し、これを拠点に「むし歯デー」を会の主要事業とすることを決定し、その施行規則も定めました。これによると、「毎年6月4日を『むし歯デー』とし、口腔衛生普及部が主宰、全会員で施行する」となっており、まさに会の一大事業との意気込みが感じられます。組織も総務部に会長・副会長があたり、他に事業部・会計部を設ける一方、実行面では、5つの班に分けて全会員一致してあたるという重厚な組織作りがなされています。昭和7年には、歯科医学の研究及び向上発達を目的に学術部も発足し、地域への貢献と歯科医学の研鑽という社会的使命を果たすべく組織の両輪が整っていきました。
こうして「むし歯デー」は、その後「むし歯予防デー」と名称を変え活発化していきました。昭和初期の軍国主義の暗い世相の中でも「歯磨き教練体育大会」や、出征兵士のための「歯科治療慰問団」など、人も物も不足する中で活動を続けていきました。
戦後、昭和22年には社団法人福岡市歯科医師会として新生し、生活にやや落ち着きを取り戻し始めた昭和23年には、戦時中の一時期中止されていた「むし歯予防デー」を復活させています。その後、歯科医師会も専門分科を各種委員会に分け、時代に即した組織づくりを進めていき、昭和28年には会館が竣工しました。
昭和30年代から40年代までの「むし歯予防デー」(歯の衛生週間と改称)は、日本経済の復興と並行するように、「歯の女王の市内パレードとブラスバンド行進」、「母と子のよい歯のコンクール」、「動物の歯のコンクール」、講演会、学童ポスター展、歯科衛生優良校コンクールなどなど、大規模で華やかになり、同時にテレビなどのマスコミも積極的に利用して、市民の歯科衛生に対する意識の向上に努めてきました。
また、一方で健診制度のない勤労者の歯の健康診断として、中小企業を対象に労働基準監督所とタイアップした事業を展開したり、新成人を対象とした一斉健診を行うなど活動は広範囲に亘るようになりました。
昭和40年代後半までのこうした活動にもかかわらず、高度成長期の豊かな食生活、特に甘味食品や洋食の普及や、生活環境、日常生活の目まぐるしい変化は口腔内の状況を悪化させ、むし歯はいっこうに減少の傾向を示しませんでした。特に乳幼児のむし歯は、当時まだ小児歯科医が少なかったこともあって、深刻な状況となりつつありました。
昭和50年、中村正雄会長は公衆衛生委員会にたいして、激発するむし歯の予防に関する事業計画の立案を指示しました。そして、これを機に歯の衛生週間行事は大きな転機を迎えることになります。 公衆衛生委員会はこの諮問を受けて事業計画を立案しましたが、その骨子は(1)たんなる祭典的・華美なものは極力排除する(2)乳幼児に焦点を当てる(3)予防の実をあげるなどでした。
こうして昭和51年度より歯の衛生週間行事は「子どもの歯を守る市民の集い」というスローガンで開催されるようになり、その内容も、位相差顕微鏡によるプラーク(歯垢)細菌の観察や口腔衛生相談、むし歯予防に関する講演会など単なるスローガンに終わらない、具体的にむし歯の予防の成果を期待し得る内容の集いとなりました。同時にこの事業は、福岡市歯科医師会・福岡市・福岡市教育委員会の共催とすることで、官民一体となった歯科公衆衛生活動を大きく前進させたと意義づけられます。
昭和54年には、より地域に密着した歯科公衆衛生活動を行うため、福岡市の行政区に沿った東、博多、中央、南、西(後に城南、早良、西へ分区)の支部を設立しました。また、昭和58年に新会館(福岡県歯科医師会館1階)が完成し、翌年の昭和59年には、同会館内にて休日急患診療所業務を開始し、現在に至っています。
その後、歯の衛生週間行事は、「母と子のブラッシング指導」「フッ素塗布」「歯科矯正相談」「歯科衛生用品の展示」などいろいろな企画で内容を多角的に充実していきましたが、来るべき高齢化社会の到来に対応すべく、むし歯と並んで歯の喪失原因である歯周病への関心を高めるため、昭和58年より名称を「福岡市民の歯を守るつどい」と改め、 「歯周病の診査と相談」「大人を対象としたブラッシング指導」などを加えています。また、平成2年からコンピューターを使った歯周病診断、遊んで学べるコンピューターゲームなどイベントの近代化にも取り組んでいます。
一方、昭和58年に公衆衛生委員会は、歯科医師会が将来取り組むことを前提に、在宅の寝たきり老人の歯科治療に光を当てるべく、予備調査を開始しました。それまでは、歯科の治療は「八重葉会」等のボランティアグループに支えられていました。公衆衛生委員会はまず、「八重葉会」の長年にわたる体験を聞くことから調査を開始し、福岡市への陳情、大学関係者との協議、歯科医師会会員へのアンケート調査、数十回に及ぶ委員会での協議を重ねた結果、福岡市の協力も得られ、昭和63年10月1日から「福岡方式」といわれる独自の在宅寝たきり老人訪問診療が開始されました。
この事業に対する会員へのアンケート調査では、約70パーセントの会員が協力医を申し出ています。
このような、取り組みに対し、平成4年には厚生大臣表彰を受けましたが、8020運動則り、より地域の皆様に密着した情報を提供できるよう、平成9年に福岡市歯科医師会ホームページを開設、平成10年には、第1回いい歯の日行事を開催し、更なる、歯科公衆衛生活動の充実をはかってまいりました。そして、平成12年には、福岡市歯科医師会会員としての誇りと地域の皆様に喜んでいただけるような活動を会員一丸となって目指すことの表明として、福岡市歯科医師会会員証を制定いたしました。